乱馬が天道道場の居候になり、良牙がPちゃんとしてあかねのペットに落ち着いた頃、時同じくしても久方ぶりの日本の地を踏みしめていた。思えば長い旅だったな、と思う。は乱馬や良牙のように武術の心得は一切ないため、本当に困難な旅だった。それはあの呪われた泉に落ちたことで一層の拍車をかけたのだ。
「あかねさん、これお土産です」
「良牙くん、いつもありがとう」
学校帰りの道、あかねが家まであと少しという角を曲がるとそこにはいつもの如く大荷物を背負った良牙がいた。土産は博多の明太子。今回は九州に行っていたのか、とあかねはにこり笑う。照れながらも満面の笑みで幸せそうな良牙の姿を、少し離れた場所から小さな少年が見つめていた。
「なんだよ、りょーが、あんな顔もするのか……」
はつまらなさそうに呟く。追いかけた先の中国では結局逢うことは出来なかった。一年、二年と時だけが過ぎ諦めて戻ってきた所で偶然にも見かけた良牙は、けれどあの頃とは何処か少しだけ違う柔らかい雰囲気で隣の女子高生に笑いかけている。
ただ自分が逢いたいという気持ちだけで追いかけたけれど、もしかしたら良牙はそんなこと微塵も思っていなかったのかもしれない。そもそも、もしほんの少しでも友達だと思っていてくれたのなら、別れの挨拶があったはずではないか。あの日からぐるぐるとの思考を巡る思いが、今、やっと答えに辿り着いた。否、その答えをわかってはいたけれど認めたくなかったのだ。
視界がぐにゃりと歪む。子供溺泉、という呪いの泉に落ちてから水をかぶると六歳ほどの子供の身体になってしまうという変身体質になってしまったは、この身体になると感情のコントロールも幼児化してしまうのか簡単に涙が溢れるようになっていた。
「……帰ろう」
ずずっと鼻を鳴らして踵を返すと、向かいから歩いてきた男の膝がの顎へと直撃した。
「ん?わわっ、ごめんっ!大丈夫か?」
ぐわんぐわんと星が回っている頭上で焦る男の顔を見れば、そこにはあの頃より大人になった乱馬の姿がある。は痛みと驚き両方を持って何とか立ち上がると、しゃがんで自分を覗き込んでくる乱馬の胸倉を掴んだ。
「らんまぁぁぁ!」
「え?何で俺のこと?……ちょっ!」
はそのまま乱馬の胸へと顔を押し付けて、それはそれは盛大に泣き声を上げる。そこには数年間のいろいろな感情がつまっていて、当然の如くさっき見た光景も含まれていたが今はただぶつかった痛みだけのせいにしておこうと、頭の隅でちらりと思った。
「は??お前なんでまた呪泉郷なんかに……」
近くの公園でが泣きやむのを待ってから互いの近況、事情を話していると空の上ではカラスが鳴いた。キィと鳴るブランコの鎖も重なって何処か空しい。
「まぁ、お前、中学のときから良牙に懐いてたもんなぁ」
「なついてたって、なんだよそれ、動物じゃあるまいし」
「いやいや、誰が見てもそうだった」
「まぁ、あながち間違いではないか。あの学校ではじめてできた友達だったからな」
「……友達、ねぇ」
含みを持った乱馬に視線を流すと、にやりと上がった口元が妙に憎らしい。
「ま、とりあえずウチに来いよ。っても俺も居候の身だけど一宿一飯くらいは許してくれるだろ」
「いや、なんか悪いし……」
「そのままガキの姿じゃ困るんじゃねーの?」
「…………」
空中でくるりと回ってブランコを飛び降りた乱馬は「行くぞ」と手を差し出してを待つ。その掌をじっと見た後にが「ガキ扱いすんじゃねーよ」とぺしりと叩けば、乱馬は「かわいくねーガキ」と笑って、無理矢理にその手を引いた。久々に触れた人の温度は、ただ、優しくて、はまた泣きそうになった。
「どうしたの、この子?」
胸に小さな黒豚を抱えながら、あかねは帰ってきた乱馬とに駆け寄った。にこりと笑うあかねにつられて、も人懐こい笑みを返す。
「昔の友達。かすみさんいる?こいつの分も晩飯頼めるかなぁ?」
「です。よろしくお願いします」
「わぁ、えらい!礼儀正しい子だね」
の名前を聞いて、ぴくりと身をよじった黒豚は、ぶききと小さく鳴くと乱馬とを交互に見遣った。ふっと笑う乱馬にあかねが詳しい説明を求めていると、の伸ばした腕が黒豚を撫でる。
「くん、動物好き?」
こくりと頷くに「Pちゃんっていうの。仲良くしてあげてね」とあかねが黒豚を渡せば、は嬉しそうに、そして大事そうに「Pちゃん」と黒豚を抱いた。
「え?乱馬と良牙くんの同級生!?」
賑やかな天道家の食卓で、ずらりと並べられた料理に囲まれながら、は申し訳なさそうに「はい」と頷いた。
「あんたの周りって本当に呪泉郷落ちる人が集まるわね」
呆れたように放つあかねの言葉にむっとしながら「何でだろうなぁ、Pちゃん?」と乱馬が意地悪く返せば、ぶききと鳴いて慌てる前にが「すみません」と謝った。
「やだ、くん謝らなくていいのよ。先に猫とかアヒルとかパンダとか、いっぱいいるんだから」
「でも乱馬くんを追っていった良牙くんを追って中国に行くなんて、愛がなせる業だわね」
「な、なびきおねーちゃんったら、そんな……」
あはは、と何処か乾いた笑いが広がる中、が一人顔を紅くしたものだから、その場の空気は余計に気まずくなる。
「ま、は昔から男にモテるからな」
あかねのおかずを横から箸で奪いながら乱馬が話せば、「じゃあ良牙くんも?」と何処か禁断の何かを見るような表情であかねが尋ねた。はぶんぶんと首を大きく振りながら否定する。
「そんなことないです。らんま、嘘つくなよ!それにりょーがにはかわいい彼女いるみたいだし」
ちらりとあかねを見遣れば、あかねの腕の中の黒豚が慌てたように鳴いた。
「うそ!?良牙くん、彼女いるの?」
「いるわけねーじゃん、あいつに」
訝しげに黒豚を見る乱馬に気付かずに、が「あかねさん、さっき一緒にいませんでした?」と尋ねると「違う違う、お土産貰っただけよ。良牙くん、良い人だから」と笑顔で否定された。何処かでぴしりと石化の音がした気がしたけれど、は「そうですか」と小さく笑う。
(じゃあ、りょーがの片想いか)
どちらにせよ自分の居場所はないような気がして、そしてまたこれが愛情なのか友情なのかの迷宮に迷い込みそうで、はいかんいかんと首を振った。
「乱馬くん、ちゃんと一緒にお風呂済ませてらっしゃい」
一式を渡されて風呂場へと案内される。脱衣所で脱ぐ乱馬の身体をじっと見つめると、はその胸板をぺたりと触った。
「なんだよ、急に!」
「いや、いい身体してるなって。俺もそんな風になりたかったのに……」
「おめー、一応中国に渡ったんだろ?それなりに修行積んだんじゃねーのかよ」
「全然。俺、そういうの全く向いてないみたいで。体育の授業の範疇を抜け出せなかった」
ふはは、と笑って桶にとったお湯をかぶると、やっと本来の姿に持ったがそこにいた。乱馬はこくりと喉を鳴らす。艶のある肌に美しく伸びた四肢が妙に艶かしい。昔から男にモテるというのも嘘ではなく、男子校だったあの頃を思い出してよく周囲で噂になっていたことを改めて実感した。
自分をじっと見つめる乱馬の視線がくすぐったかったのか、は「なんだよ?」と桶の湯を浴びせる。「てめーこのやろー」と暫くじゃれあった後で、二人仲良く湯船に浸かれば何処からかかぽーんと暢気な音が聞こえてきそうだった。
「で?良牙には逢っていかねーの?」
「逢うったって何処行けばいいんだよ。何処にいんのかもわかんねーのに」
「んー、案外近くにいんじゃねーの?」
すりガラスの下に小さく映る黒い影に聞こえるように乱馬が声を大きくすれば、その向こうでびっと逆立った毛が見える。
「……でも、なんか、どんな顔して逢えばいいのかわかんなくなった」
「は?」
「いや、逢いたくて追いかけたはずなんだけどさ。でも向こうはそんなこと望んでないはずだろ。よく考えたら何も言わずに行ったのだって、俺には言う必要がなかったってことだろうし」
「いや、そりゃの勘違いだと思うけど」
「はは、何だよ。乱馬ってそんな優しい奴だったっけ?」
「俺はいつも優しいんだよっ」
「どうだか。良牙の昼飯も俺の昼飯もいつも横からかっさらって行ってたじゃねーか」
「食欲には逆らえねー」
「なんだよ、それ」
笑いながらは湯船を出る。「もうだめ、のぼせそう」と情けない声でドアを開けた。
「乱馬、ありがとな」
この話はこれ以上しない、という無言の強制終了でカラカラと閉められたドアの隙間から、と入れ違いで入り込んだ黒豚はまだ乱馬の浸かっている湯船にとぽんと身を投げると、次に浮かんできた良牙の姿で、ただ、ぼーっとそこにいた。
「おい、良牙、おめーどうすんだよ」
掌を合わせて、その中から飛び出した湯を顔に当てると乱馬は呆れたように呟く。
「俺は今更どんな顔してに逢えばいいのかわからん」
「別に普通でいいじゃねーか」
「その普通がわからんと言っとろーが!」
がぼがぼと乱馬の頭を沈めながら、良牙は心底困ったようにの出て行ったドアの先を見つめていた。
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111203