万事屋へと戻る途中、曇り続きだった空からついに雨粒が落ちてきた。降りだすかな、と思っていた不安は的中して地面は徐々に色を濃くしてゆく。銀時はちらりと後ろを気にすると、袖を掴む手を引っ張って足早に近くの公園のベンチへと連れて行った。
 屋根付きの小さなその場所は雨を凌ぐには丁度良い。自分ひとりなら別に濡れて帰っても構わないが、怪我人のにはそれは酷な気がした。
(……怪我人ってのは、ちょっと違うか)
 空を仰いでこれはすぐに止む雨ではないと判断した銀時は、をベンチへと座らせると肩に置いた手の力をゆるりと逃す。

「ウチまで結構距離あるから、さっきの奴らのとこ戻って傘借りてくる。すぐだからお前はここで待っとけ。わかったか?」

 暫くの間のあとに、こくりと頷いたの表情が迷子になった子供の様に見えて、妙な罪悪感と可笑しな愛しさが入り混じった。

「すぐに戻ってくるから心配すんな」

 右手を添えて頬についていた雨粒を親指で軽く拭ってやると、くすぐったそうに瞳を閉じてはもう一度、こくりと頷いた。
 駆け足で雨の中を真選組の屯所へと向かいながら、銀時はなんとも云えない表情で一人ごちる。

「あー、本当にらしくねぇ。何やってんだ俺は」

 雨音に消えるには、少し大きな独り言だった。






 残されたは雨の音を聴きながら大きく息を吐いた。
(やはり私は死んでしまったのだ)
 ずるりと滑った身体が妙に重い。
(……銀さん、って呼ばれてたっけ、確か)
 得体の知れない自分にここまで親切にしてくれる人物に、申し訳なさと足りない程の感謝を思うと胸が痛んだ。
 冬の空気に冷たい雨。知らない世界だというのに、地面を打つその音は聴きなれた雨の音だ。死んだはずの自分が来た浄土の世界は、名前の似た大切な場所が、けれど自分の場所ではない。極楽へ逝けると思っていたわけではないが、せめて組の皆と同じ処に逝きたかったと、死んだあとまで欲を出す自分には呆れ笑った。
(人を斬り過ぎて、穢土の最果てに迷い込んだか……)
 思うと同時に、懐かしい言葉が頭に浮かぶ。

は斬ることを悪いことだと思うのがいけない。己を貫けばいい。信じる人を信じればいい。私に近藤さんがそうであるように」
「だが命を奪うとは簡単なことではない」
「誰も簡単なんて云ってませんよ。重きは等しく。誰が悪くて誰が正しいかなんて、今はわからないんだから。その答えはこれからの時代に任せるしかない。      って、近藤さんの受け売りですけど」

 ふふっと笑った総司の顔があのときのままにそこに在って、は目の奥が熱くなるのがわかった。
       願わくば、見たかったのだ。時代の行く末を。自分たちが信じた道の先を。

 にゃー、と微かに聞こえた鳴き声に意識を戻す。降る雨に紛れて届いたその声は、何処か懐かしさを含んでいる気がした。松本法眼が用意してくれた植木屋の庭で総司がよく見かけたという猫の話を思い出すと、は無意識のうちに雨の中へと身を投じ、その主を探す。
 今を受入れようと強く在ろうとすればする程、どうしようもない不安と孤独が襲ってくる。悪い夢を見ているのだ。土方さんが撃たれたことも、総司が病に連れ逝かれたことも、近藤さんが      。嗚呼、そうだ。永倉さんや原田さんが離隊したことや、源さんが淀千両松で討死したこと、平助だって、山南さんだって……。
 がくん、と何かにつまずいて倒れると、そこに出来ていたのであろう水たまりがぱしゃんと音を立てた。長着に滲み込んでくる雨はどこまでも冷たい。
 同じ雨だった。箱館でも京でも江戸でも、過ごしてきた日に降る雨と何も変わらない。違うのは自分だけなのだと握った拳を地面へと叩きつけても、叫びたい言葉はやはり声にはならず、視界は暗いままだった。



「大丈夫ですか?」
 
 かけられた声と同時に、降る雨が遮られる。水滴を弾く傘の音に正気に返ると、はゆっくりと顔を上げた。

「立てますか?気分が悪い?それとも何か失せ物でも?」

 力強く支えられた腕に身を任せ立ち上がると、滲み込んだ雨と纏った泥で僅かに重くなった長着も手伝って足元をふらつかせた。「おっと」と腰に回された腕に、このままでは相手の服まで汚してしまうと咄嗟に身を引く。深く頭を下げて、屋根のある場所へと向かおうとしたがその方向さえ見失っていた。辺りを見回したところで場所が見えるわけでもないが、習性とは不思議なものだ。

「あの、本当に大丈夫?」

 心配そうな相手の声にこくこくと頷いて、とりあえず真っ直ぐ歩こうと一歩を踏み出すと、頭上に差し出されていた傘までもがその後をつけてきた。見上げたあとに振り返れば、少しだけ笑いを含んだ声が優しく響く。

「そっちに行ったら樹にぶつかっちゃうよ、おいで」

 引かれた腕から伝わる熱が人の温かさを知らせる。整理のつかない思考の中で、冷たい雨とその温もりは確かなものだと、はぼんやりと思った。
 屋根付きの下へ連れて行かれると、先程よりも強くなった雨が地面を打つ。

「その様子じゃ一人でここに来たわけじゃないよね?誰か待ってる?」

 こくりと頷くと「そっか」と短い返事があった。

「じゃあ、その人来るまで一緒に待ってよう」

 布のようなもので頭を拭かれながらも、そこまでしてもらっては悪いと首を振る。何だか子供扱いされている気がしなくもないが、今の自分ではそれも仕方ないと諦めた。

「うん、大丈夫だよ。市民の安全を見届けるのも俺たちの仕事だから」

 ぽん、と頭に乗せられた掌に懐かしい人を思い出すと、雨の雫が泪の代わりとでも云うように一筋伝う。
 静かな刻だった。かけられた上着がふわりとを包む。
(ああ、前にもこんなことがあったな……)
 記憶の底に埋もれていた思い出が彩鮮やかに蘇り、瞼を下ろすとまるで眠るようには意識を手放した。





 朝の占いは一位だった。天気は悪いが気分はいい。「思いがけない拾いものでいつもの苦労が報われるかも。ラッキーアイテムは赤い傘」今日はもしかして愛しのあの人をお誘いしたら良い返事が貰えるかもしれないと、もはや日課になっている彼女の行動の把握作業に出掛ける為に部屋を出た。が、開けた障子の向こうには機嫌の悪そうなトシの顔。あ、でもこれは地顔か、と朝の挨拶を交わすと、襟首をつかまれて部屋へと戻された。

「近藤さん、どこ行くんだ?」
「どこって、愛を確かめ      
「脱げ」
「え?きゃああぁぁぁぁぁぁ!やめて、トシ!俺の身体はお妙さんのものなの!」
「ふざけてんじゃねーよ!めかし込んで朝からどこに行くかと思えば。今日は松平のとっつぁんに呼ばれてる日だろ。さっさと隊服に着替えて行ってこい!」

 無理矢理に着替えさせられると門の前では黒光りした公用車が停まっていた。仕方なく乗り込もうと身を屈めたときに、あっと思い出して傘立てから赤い傘を一本抜く。「今日は車での移動ですから、降り出しても必要ないですよ」と隊士の言葉に「うん、でも一応な」と笑って返した。


 お偉いさんたちとの長い会議が終わる頃には、空はますます曇っていた。きつく締めすぎた隊服のスカーフが苦しくて、緩めると同時に背を伸ばす。慣れない椅子に長時間座り続けたせいか、身体が変に固まっていろんなところの骨が鳴った。あーしろこーしろと無駄な議論は聞いてるだけで疲れてくる。近藤はどう考えているのかと問われ、意見を述べれば鼻で笑われてお終い。国を変えたいと願う気持ちは机の上の書類だけでは叶わないのに、いつまでこれを続けるのか。
 答えの出ない問いに肩を落とすと、毎度のことを見抜いてか待っていてくれた隊士が困ったように笑いながら後部座席のドアを開けた。端に置いてある赤い傘が瞳に映る。このラッキーアイテムは、いつ、その効果を発動させるのか。はは、と乾いた笑いを呑み込むと沈んだシートがぎしりと音を立てた。
 屯所へと向かう途中、窓の外にはぽつりぽつりと雨粒がぶつかりだす。「あ、降り出しましたね」と隊士が覗いた空からは大粒の雨が、我先に地上に下りると云わんばかりに落ちてきた。動き出したワイパーをじっと見つめながら腕を組み直すと、動いたつま先にかつんと当たった傘が倒れこんできてその存在を教えてくる。
 近藤は車を停めさせると「考えごとしたいからここから歩いて帰る」と、雨の中へと赤い一輪を咲かせて紛れた。




「あれ?寝ちゃった?おーい?」
 
 肩にもたれた頭から急に体重がかかったことに驚いてそっと顔を覗き込むと、整った顔立ちに一瞬、心臓が脈打つ。
 少年が雨の中で倒れているのかと心配して声をかければ、そこまで少年というわけでもないらしい。歳を訊いたわけではないが、その雰囲気が、何かこう、ある程度の修羅場を潜ってきたようなそんな感じだった。焦点の合っていないような不思議な瞳は、どうやら何も映してはおらず、樹に向かって歩き始めたときは思わず笑ってしまった。トシが見たら一発で不審者扱いだろうなぁと、再度込み上げた笑いを隠してベンチへと案内すると、ほどいたスカーフで濡れた髪や顔についた泥を拭き取った。頷いたり首を振ったりとよく動くその仕草に、動物でも拾って親に隠れて世話をする子供を思い出し、この場合の親はトシかなぁ、なんてどうでもいいことを考える。
 微かに震えた身体に上着をかけると安心したのか、彼は瞳を閉じた。珍しく隊服を着ていてよかったと思う。赤い傘もラッキーアイテムというよりは、その本来の存在のまま傘として大いに役立ってくれた。このまま、彼の待つ人が現れるのを待てばいいかと考えていると彼の頭がしな垂れてきて、先に戻るのだった。

「寝てる……のか?」

 あまりにも急な気がして、もしかして息をしてないのかと心配する。胸部や腹部の動きを見ようにも体格に合っていない大きな隊服が邪魔をして、それを許してはくれなかった。冷たい腕をとって脈を診れば、とくんとくんと血の流れは確認できてほっとする。この寒い中、上着をかけたとはいえ下は濡れたままの服だ。風邪をひかないとも限らない。さて、どうしたものかと思案した後、近藤はその背中へと彼を背負い濡れないように傘を差して屯所へと向かうことにした。待ち人が来たときのことも考えて、携帯で屯所へと連絡を入れると手の空いている隊士を呼ぶ。

 首筋を掠った濡れた彼の黒髪がくすぐったくて目を細めると、「近藤さん」と柔らかな声で呼ばれた気がした。

 雨はまだ、止みそうにない。




      






110309