「…………」
「…………」
「…………」
「……おい」

 ペンを握ったまま呆けた顔をしているを銀時は覗き込む。少しだけ血の気が引いたその表情に、先程から震えていた指先も気になって、はらりと垂れてかかった前髪を額を出すようにかき上げた。

「どした?気分悪いか?」

 はっと気付いて小さく頭を左右に振ると、はまた下を向いて紙の位置を指先で触れて確認する。けれど、いつまで経ってもそこに文字が綴られることはなく、押し付けたペン先からにじみ出たインクが小さな染みを拡げていくだけだった。流れる沈黙に耐え切れなくなった銀時は、の腕をがっしりと掴むと無理矢理に立ち上がらせ外へと引っ張る。咄嗟のことでよろけそうになりながら、しかし何とか踏ん張って歩く速度を合わせると、吹き抜けた風が妙に冷たくて鼻の奥がツンとなる冬特有の感覚にはどこか諦めにも似た息を吐いた。




「とりあえず、あいつらのとこに連れてってやるから」

 その後はあっちで面倒見てもらえよ、と気だるそうに頭を掻きながら銀時はすたすたと歩く。「病院代、倍くらいふっかけるけどこれまでの礼ってことで黙っといてね」と付け足して真選組の屯所へと向かった。
 上空では天人たちの船がエンジン音を轟かせながら、今日も当たり前のように飛び交っている。ゴゴゴゴゴと鼓膜を揺らすその先を見上げながら、は歩みをゆるめると、銀時が「ん?」と振り向いた気配を察して空を指差した。

「なんだ?空がどうかしたか?」

 両手で耳を塞ぐ仕草がまるで子供のようで、思わずふはっと笑いが零れてしまう。

(無表情かと思えば急に青ざめて、んで、今度はこんなツラかよ。変な奴)

 が、それが嫌かと云うとそうでもない。

(……らしくねぇ。情が移っちまったかな)

 こほん、と短く咳払いしての耳から両手を包むように離す。「ここ握っとけ」と長着の袖を掴ませて、さっきよりもゆっくりとした歩調で歩き出した。

「お前の田舎の空じゃ、天人の船も滅多にお目にかかれなかったか?慣れちまえば気になんねーよ」

 返り見たは、それでもまだ不思議そうに空を仰いでいた。




 塀が視界に入り、門はすぐそこだと教えると、ずっと空を見上げて歩いていたはようやく顔を正面へと向ける。ずっと同じ方向を見ていた所為で首が痛いのか、空いた手でさすった後に左右に小さく傾げた。

「あれ?旦那?珍しいですね、屯所に来るなんて」

 坊主頭のいかつい男と並んでいる知った顔を見つけた銀時は「あぁ」と短い返事をすると、の肩を前に押して山崎の前へと歩ませる。

「ジミーくん、行き倒れていたお仲間を連れてきてあげたよ」

 だからお礼を寄こせ、と手を差し出せば、山崎は呆れたように肩を落とした。

「今度は何を企んでるんですか?土方さんに見つかる前に帰ったほうがいいですよ」

 土方、と名前が出た時には握っていた掌に力を込めた。ほんの一瞬の出来事だったが、銀時はそれに気付かないフリをして会話を続ける。

「あれ?ジミーくん、この子知らないの?」
「何で旦那の連れを俺が知ってるんですか」
「おい、ジミーくんはやっぱ地味過ぎてお前も知らないか?」

 山崎を無視してへと尋ねると、見えていないだろうその瞳が懸命に山崎の姿を探していた。

「誰がジミーですか。山崎です」

 ぴくり、との肩が上がる。が、すぐに俯いて小さく頭を左右に振る。それは知らないという否定なのか、それとも知っているという肯定なのか、銀時には量れないでいた。土方という名前にも、山崎という名前にも確かに反応したはずだ。それなのに、再会を喜ぶ感じでもない。……もしかして、仲間じゃなくて敵だったのか?だとしたらまずい、と銀時はを引っ張って山崎たちから少し離れると、その耳元へ囁くように声を潜めた。

「お前、もしかして攘夷派の連中のひとり?ここって場違い?」

 攘夷派という言葉に、ばっと顔を上げたはそこだけは否定するようにぶんぶんと頭を振る。

「……じゃあ何?ここで誰に逢いたいの?マヨ中毒?サディスティック少年?……ゴリラ?」

 きょとんとするに、あぁ、これじゃらちが明かねぇと頭を掻くと銀時は溜息を吐いた。名前を云ってやらないと通じないかと、マヨネーズ好きの瞳孔全開野郎やストーカーゴリラの名前を口にしようとした時、その人物がタイミングよく現れる。名前を云う手間が省けたな、と銀時はその背後へと振り返り「どーも」と思ってもいない挨拶をした。

「こんなトコで何してんだ?自首しに来たか?」
「善良な市民つかまえて、云うことはそれだけですか?」
「お前のどこが善良だ。怪しさしか漂ってねぇぞ」
「あっれぇ?なんかここマヨ臭くない?マヨ臭漂ってない?」
「てめぇ、斬られたいのか?」

 親指を立てて鯉口を切ろうとした土方を、山崎がまぁまぁと宥める。邪魔すんな、と殴られた山崎は哀れにも地面へと倒れこんだ。
 目の前で何が起こっているのかを把握できないは、ただ銀時の袖を握ったまま立っている。土方はその姿を捉えると、ふんっと左手を鞘から離した。

「おい、お前。店は選んだほうがいいぞ。万事屋ってもロクなことしねぇからな、そいつは」
「客じゃねーよ。……ってあれ?こいつ知ってる?」
「あ?知るわけねーだろ、お前の連れなんざ」
「うわ!ジミーくんとほぼ同じ答え。それってあんたらの隊規なの?同じことしか云っちゃ駄目なの?」
「やっぱ斬る」

 すっと引かれた鞘から出た刀身を軽々と避けた銀時は、しかし袖を握らせていたことを忘れていて、急に引っ張られた腕にバランスを失ったは土方の抜いた刀に飛び込むように前に出た。銀時が避けることを想定して抜いた刀が、思いがけず別人に当たりそうになったことにひやりとしながらも、土方はその剣先をぎりぎりの所で方向転換させる。掠って切れ落ちたの黒髪が、はらりと風に舞った。

「あ、ぶねー……」
「このチンピラ警察がぁぁぁぁ!一般市民殺す気か!」
「うるせぇ!てめぇが避けるからだろ!」
「は?死ねってか?それは俺に死ねって云ってるんですか?」

 そんな状況の中でも取り乱すことなく立っているだけのを見て、土方は「悪かったな」と切れた髪の辺りを払った。首を振るだけの、その定まらない焦点にの瞳が何も映していないことを悟ると、一瞬何かを考えるようにして視線を銀時へと戻す。

「で、何しに来やがった」
「別になんもねーよ。たまたま通っただけ」

       ほら、行くぞ。との腕を掴むと銀時は元来た道へと戻っていく。状況を飲み込んでいないに「今のが副長の土方って奴だけど、知り合いじゃないみたいだな」と告げてその顔色を窺った。びくっと反応した後に勢いよく振り返って、は土方がいるであろう方向をじっと見つめると、その瞳にまだ映ることのない姿はすでに背中を向けて屯所の中へと消えていく。
 視線の先を確認すると、銀時は思案顔で天を仰いだ。ここの奴らはを知りはしない。が、は確かにここの連中を知っている。真選組に入りたい、とか、敵だ、とか、そういう類のものとは明らかに違う熱を持って、その瞳は揺れていたのだ。片付くのはまだ先か、と一呼吸おいて立ち止まりに問いかけた。

「戻るか?逢いたかったんじゃねーの?」

 時間が止まったように、ただ、土方のいた場所を見つめていたは、銀時の声にようやくその時の流れを再開させると、静かに笑って首を振った。
 初めて見せたの笑顔に、銀時は「あー」と溜息にも似た声を出すと、そんな顔すんなばーか、と続けた。

「泣きたいときは泣けばいーんだよ」

 ぴしっと指先で額を弾くと見る間に赤くなったそこを押さえながら、はまた困ったように笑った。




       だって、ここに、五月の風は吹いていないから。




      



101214