草太もに気付いて頭を下げるが、いまいち店の状況が理解できない。西野、鶏井、林の三人が、ともう一人見慣れぬ客と同じテーブルで酒を飲んでいる。カウンターのそよ子をちらりと見ると、その経緯を教えてくれた。



 酒がどんどん進む中、のグラスが減らないのを見て、草太はちらりとその顔を窺う。それに気付いたがにこりと笑ってカウンターへと移動してくる姿をじっと見ていた。

「珍しいですね、さんがお酒飲んでるの。初めて見ました」
「え?名前……あ、ビー太郎か」
「はい。今日はもう寝ちゃってるんですけど」
「やっぱ子供は早いなぁ。俺も一緒に寝たいです」
「あはは、奥でどうぞ」

 「本気で寝そうなんでやめときます」と笑うは、続けて「あ」と声を出した。

「奥さん、綺麗な方ですね」
「え?」

 の視線の先には、テーブルで皆と楽しくしているそよ子の姿がある。草太は慌てて首を振ると「違いますよ、違います」と笑った。否定を受けて、はそれ以上は何も訊かなかった。ただ一言、「勘違いしてすみません」と謝る。
 さんは……と言いかけると同時に「草太さんの」とが顔を上げた。一瞬、とくりと鳴った心臓を誤魔化すように「はい?」と返せば、はカウンターの後ろを指さした。

「草太さんのおすすめ、食べたいな」
「あ、あぁ、はい。ありがとうございます。すぐに用意しますね」
「ずっと待ってたんですよ、佐藤さんが帰ってくるの」
「あの、俺、山田です。ここには雇われで」
「え?そうなんですか?すみません、失礼な勘違い……あ、俺、前も佐藤さんって呼んでますよね……本当、ごめんなさい」
「いえ、よく間違われるんで。全然気にしないでください」
「山田さん。山田さん。山田草太さん。うん、覚えました。ばっちり」

 屈託なく笑うの姿に、やはり跳ねた心臓がうるさい。自分をずっと待っていたと笑顔で言われて、ものすごく嬉しかったのも事実だ。あれ?この気持ちって……と考えたところで、の隣にビール瓶とグラスを持って葉山が座った。

「酷いさん。俺をほっといて他の男と浮気なんて」
「は?もう酔ってんの?」
「酔ってないですけど、酔ったらさん家泊めてくれますか?」
「嫌。ってか無理。俺まだ仕事残ってるんで」
「そんなの!俺も手伝いますよ!何ならそのあとの色々も手伝いますけど」
「意味わかんないし」
「あれ?意味わかんないですか?」

 急に真剣な顔をしての顔を覗き込む葉山を、カウンター越しに草太はじっと眺める。わかりやすい程に好意を持って接しているこの後輩をはどう思っているのだろうか。ちらりと考えて、まだ数回しか逢ったことのない客を相手に、余計な詮索だろうかと自分を戒めてみたりもするのだけれど。

「は?何      

 言いかけたに覆い被さるように葉山が唇を重ねた。ちゅっと音を立てて離れたかと思うと、すぐにの頭を右手で抱え込んで、今度は深く口付ける。歯列を割って舌を入れると、ん、と漏れたの声がいやに耳に残った。

「これでわかりました?」

 解放して、にっこりと笑う葉山に呆気にとられていたは、けれど次の瞬間「阿呆か」と上げた腕で口を拭った。

「やっぱ酔ってるし。酔っ払いに付き合ってる暇はないの。お前もう帰れって」
「全然酔ってないですけど、まぁ、とりあえず俺の気持ちはわかってもらえたと思うんで、今日のところは退散します。また月曜に会社でね、さん」

 名前を強調して呼ぶと、そんなやりとりがあったことに気付かずに騒いでいるテーブルへと向かい荷物を取り、葉山は林たちに挨拶をして金を置く。カウンターを通っての肩へと手を置いたあとに、ちらりと草太の顔を見ると意味有り気に笑って店を出て行った。
 シーン、とカウンターを静寂が包む。はっとしたようにが顔を上げると、苦笑しながら草太へと謝った。

「すみません、お見苦しいところを……」
「いえ、あの、さ……」
「俺、ちゃんと大人の対応できてました?」
「え?」
「だって……だって、本当は殴ってやりたいほどムカついたのに!」

 ぎゅっと拳を握るの姿に、思わず安心して息を吐く。

「はい。さん、大人の対応でしたよ。何なら俺が殴ればよかったですね」
「え?いや、それはさすがに悪いような……ん、でも、うん、殴ってくれてもよかったですかね」
「ね」

 笑い合うことで、その場の空気が和んだ気がした。

「酒の席でのこういうのって、もう慣れてるはずなんですけど、やっぱ気分悪いっていうか」
「慣れちゃ駄目ですよ。あれ、あれですよ、セクハラです、それは」
「……ふはっ、男同士でも適応されますかね?」
「あ、いや、でも、抵抗はしないと」
「そうですね。次やられたら殴ります」

 近くにあったビール瓶をそのまま直に口に入れると、はごくごくと流し込んでもう一度口を拭った。「アルコール消毒」と草太を見て笑う姿は、けれど少しだけ沈んでいるようにも見える。
 切り下ろしている刺身を一切れ取ると、草太はビー太郎にするように「あーん」とを促した。

「え?」
「これで消毒完了です。はい、あーん」
「じゃあ」

 あーん、と口に入れられた刺身の美味さにはぱっと明るくなる。入れた際に唇を掠った草太の指が、薄く熱を持った気がした。
 つい、息子にするように接したけれど、そこにはほんの少しだけ、葉山から受けた挑戦を返す気持ちも含まれていたことに草太は気付かないふりをする。

「うまー」

 心底美味しそうに言うに「よかった」と笑う。
 自分にだけ、この笑顔を向けてくれればいい。年の割に素直に笑って、よく変わる表情を、自分のためだけに見せてくれればいい。
 そんな風に思ってしまった考えも一緒に閉じ込めると、草太は再び包丁を動かした。




110905