残業、残業、残業。片付かない仕事に大きな溜息を吐いた。会社が忙しいのはいいことだ。配置換えで異動になったこの場所で仕事を任されるのも嬉しいことだ。けれど……「何か、こう、もっと違うドキドキも欲しい」と疲れてイってしまった脳で乙女のようなことを考えた自分にすぐに失笑した。時計を見れば午後八時過ぎ。明日は日曜だから持ち帰って家でやろうと一人納得すると、すでに他の社員は帰ってしまった暗いフロアで書類をまとめ、は会社を後にした。
 まだ、ル佐藤は開いているだろうか。帰る前に美味しいご飯を食べれば、家での作業もはかどりそうな気がしなくもない。      いや、あの味なら確実にする!と店への道のりを歩いた。



「いらっしゃいませ」

 のれんをくぐるとカウンターにはいつもの常連客三人が並んでいた。いつもと違ったのはカウンターにいる人物だ。綺麗な格好をしたおおよそその場には似合わない、可愛らしい女性が立っている。
(うわ、似合わないとか、俺なんか超失礼なこと思った)
 心の中でその人へ謝ると、常連客に軽く会釈して奥のテーブルへと座る。定位置のカウンターはすでに人がいるんだから、この際、一人でテーブルでも許されるはずだ。……団体が来たらどけばいいや、とはメニューを見た。
 ん?とある疑問が浮かぶ。いつもの店主がいないのなら、料理するのはこの女性だろうか。奥さん?と考えながら、ちらりとカウンターの奥を見遣った。にこり、と笑うその仕草は可愛らしい。が、今のに何より大事なのはあの味が食せるのか、だ。笑みを返すと女性はお冷を運んできた。

「すみません、草太さん今ちょっと買出しに行ってて。すぐに戻ると思いますので」
「あ、そうなんですか?じゃあ、えっと……待ってます」

 再び笑顔を向け合う。今の返答で間違ってはいなかったかな、とは少し不安に思った。この女性が作る、という選択肢ももしかしたらあったのかもしれない。いや、でもなぁ、今の言い方なら……と一人思考を巡らせた。
 カウンター横に張り出された「草太のおすすめ」というメニュー表をちらりと見ながら、グラスの水を口に運ぶ。前から気になってはいたけれど、やっぱりこの草太というのはあの店主の名前なのだろう。張り紙を見て、そのアットホームさに思わず小さな笑みが零れた。

「でもやっぱり、そよ子ちゃんがそこに立つと華があるねぇ」
「そうそう。仕事終わりの一杯をこんな可愛い子に注いでもらったら疲れもどっか行っちゃう」
「草ちゃん、幸せもんだよなぁ」
「そ、そんなんじゃないですよ」

 照れて赤くなる仕草がやっぱり可愛い。普通の男なら絶対好きになっちゃうだろうなー、と狭い店内で勝手に聞こえてくる会話を心の中で考えていると店の扉がガラガラと開いた。店主のお帰りかな、とがそちらを見ると何処かで見た顔がそこにある。一瞬の遅れた反応の後、「あ」と声が出た。

「やっぱりさんだ!らっきぃ」

 ずかずかと奥に入り込んで当然のように向かいの席へと座った人物は、新しい会社で妙に自分に懐いてくる後輩の葉山だった。仕事も出来て、顔もいい。会社内でも好かれているパーフェクトな男。同じ男として少しだけ劣等感を感じなくもないが、それを考えるよりも先にこの男の性格の良さに、いっそ清々しい気持ちになれると他の社員たちが話していた。だから必要以上に構ってくるのも、新しい場所に慣れない自分への優しさだろうとありがたくは思っている。

さんがこの店入るの見えたから、ついてきちゃいました」
「あぁ……そう」

 それ以外に何と返せばいいのか、にはわからない。

「何頼んだんですか?ここよく来るんですか?この近くに住んでるんですか?今度遊び行ってもいいですか?」

 にこにこと笑いながら全て質問で会話する葉山に困ったように笑い返す。もう酔っているのだろうか?ゆっくり飯が食いたいのになぁ、とはどこか他人事のように思っていた。

「おーい、さん?」
「ん?ああ……。まだ頼んでないよ。店主さんが今、留守なんだって」
「そうなんですか?じゃあ違う店行きます?俺もっとお洒落でもっと美味しいとこ知ってますよ」

 その言葉に常連たちがピクリとこめかみを動かしたのがわかった。仕事は出来るのに何て残念な子なのだろう、とは溜息を吐く。何気なく言っただけだろうが、配慮に欠けるその言葉はこの男のためにならない。別に先輩風吹かすつもりはないけれど、自分のお気に入りの店をそう言われるのは、やはり楽しくはないのだ。

「葉山、お前この店来たことあるの?」
「いや、ないですけど」
「この店、びっくりするくらい美味しいから」
「へぇ」
「だからさ、俺、ここに居たいの。ここで食べたいの」
「はぁ」
「ってことでさ、お前はお前のお気に入りの店に行っておいで」
「いやいや、何ですか、それ。俺、さんと一緒したいんですけど」
「無理無理無理。俺、飯はゆっくり一人で食べたいの」
「えぇー……何か、怒ってます?」
「別に」

 何でですか?と下を向いて考えた後に、葉山は勢いよく顔を上げるとカウンターにいる常連たちと女性に向かって頭を下げた。その行動にその場の全員が身を引く。

「他のお洒落なとこ、とか、美味しいとこ、とか言ってすみませんでした!俺にもこの店の美味しいもの食わせて下さい!」

 存外、素直に謝ったそのことにを含める全員が思わず笑ってしまう。なるほど、性格いいってのはあながち嘘ではないのか、とは少しだけこの後輩が可愛く思えた。

さん、これでご一緒してもいいですよね?」
「は?あぁ……いや、……んー」
「気に入った!」

 返事に困っていると、カウンターから常連の一人がビール瓶を持ってテーブルへと座る。葉山へとグラスを渡すと、その中に溢れんばかりのビールを注いだ。

「あんた、いい性格してるねぇ。男はやっぱ自分の否を素直に認める!そうでなくちゃ!」

 林と名乗った男が、にもグラスを渡そうとしてそれを両手で断った。

「何?そっちのあんたは飲めないの?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
さん、せっかくなんだから」
「……じゃあ、あの、一杯だけ、ありがたく」

 受け取って乾杯すると、他の常連客も混ざってテーブルはあっという間に賑やかになった。はグラスのビールを見つめてから、こくりと喉に流す。うまい。そんなことはわかっているのだけれど。正直に言えばこの店ではあまり飲みたくなかったのだ。ここは本当に食べ物が美味しい。ご飯が美味しい。だからこそ、酒じゃなく、料理が食べたい。      ま、店主が帰ってくるまでこの一杯を楽しむか、とは諦めた。


 十数分が経過して、店の扉が再び開く。今度こそ店主だとその方向を見ると、予想通りの人物には小さく頭を下げた。