引っ越してきたばかりで土地勘はゼロ。見知らぬ町を、けれどこれから生活をするこの場所を少しでも知ろうと、は久しぶりに定時で上がれた仕事終わりの道を、いつもと一本違う道に入った。
 ……ま、なんだ。要は腹が減ったからいい店あればいいなぁってことなんだけどね。
 くぅ、と鳴った自分の腹を押さえて、もう少しの辛抱だぜ、相棒!と莫迦なことを言ってみる。自炊は嫌いじゃない。けれど、引越しの片付けもまだのまま仕事の量だけは増えたのだから、連日の残業続きでコンビニ飯も飽きてしまった。
 人の味が食べたい。炊きたての白いご飯に玉子焼き、ほうれん草の胡麻和えに、あぁ、だったらメインはやっぱさばの味噌煮がいいなぁ……待て、辛塩の鮭も捨てがたいか。ううん、そんなきちんと揃ってなくてもいい。しょうゆをたっぷりかけた卵かけご飯でも今の俺にはご馳走だ。
 そんな、空腹に追い討ちをかける己の想像に口の端を拭うと、きょろきょろと辺りを見渡した。陽が落ちるのが少しだけ早くなった空は、夏の終わりが近いことを語っている。
 それでも残暑はまだまだ続くその空気を深く吸い込んだ。ふと、一軒の店らしきものが目に入る。不自然な空白の後「ル佐藤」と掲げられたくたびれた看板が、学生時代に通った老夫婦の経営している田舎の小さな定食屋を彷彿とさせた。できれば優しそうなおばちゃんが「あんた見かけない顔だね」なんて、この辺のことを喋りながらおかずの一品でもサービスしてくれたら惚れちゃうんだぜ!と得意の一人妄想コマンドを瞬時に発動させ、うん、と頷くとは真っ直ぐにその店へと歩く。


 「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれたのは、自分とそんなに変わらないであろう年代の青年だった。店の中はお世辞にも広いとも、綺麗とも言えないが、その雰囲気は何処か安心する。手近なカウンターに座ってメニューをざっと見ながら「とりあえずビール」と言いそうになった口を何とか止めた。
(あぶねー。今日は違うだろ、俺!)
 酒は決して嫌いじゃない。けれど今の自分が恋しいのは手料理。飯と言えば定番の飲み物は水かお茶だと、は思っている。

「えっと……」

 と、和食の類は何があるのか訊いた方が早いと判断したはカウンター越しの店主へと視線を流した。が、そこで目に入ったのはふわふわの玉子に、たっぷりのトマトソース、極めつけは旗の立ったお子様ランチのようなオムライス。四皿並んだその眩しさに思わず「うわっ」と声が出る。注文を待っているのか、にっこりと笑った人の良さそうな店主は、けれどいつまで経っても注文しないにぺこりと頭を下げると、そのオムライスを持って店の奥へと運んでいった。
 子供たちの歓声が上がるその奥をちらりと覗けば、賑やかにわいわいとスプーンを握る姿が目に入り、何だか気持ちが温かくなる。そういえば、オムライスなんて久しく食べてないなぁと思いに浸っていると、再びカウンターに戻ってきた店主は冷水のグラスをことりと置いた。

「すみません、うるさくて」
「あ、いえ、全然」
「何にします?」
「あの、」

 店に入るまで頭の中を占めていた和食の類は何処へやら、気がついたときには口が勝手に言葉を放つ。

「同じもので」
「え?」

 聞き返す店主に、は自分の口の素直さに半ば呆れながら「オムライス」と笑顔で注文した。
 一瞬、手の止まったように見えた店主は、すぐに笑みを返して「承りました」と卵を割る。手元のグラスを一気に流し込むと、意外と渇いていたらしい喉を潤していった。うん、水もなかなか美味い。程よく冷えた水は、都会の水は口に合わないと考えていた田舎もの丸出しの思考を覆す。ミネラルウォーターかもな、と行き着いた答えに小さく笑ってしまった。
 店の奥からは子供たちの楽しそうな声がする。は肘をついてその上に顎を乗せると、目の前で完成されていくオムライスをじっと見た。手際の良い動きに純粋に感動する。
 
 一方の店主は、穴が開くほど見られているという表現がぴたりと合うほどの客の視線に、冷静を装いながらもどきりとしていた。付け加えればこの店主は店主にあらず、ただの雇われなのだが、どちらもの知るところではない。
 
 空になったグラスに水が注がれると同時に「お待たせしました」ときらきらと輝くように見えるオムライスが置かれた。そこには何故か、しっかりと旗まで立っていては思わず笑う。その意味をどう捉えたのか、店主は慌てたように謝ってきた。

「あ、すみません。旗は邪魔ですよね……」

 さっと伸びてきた手を、あ、と掌で遮ると、は屈託のない笑顔で「いえ、邪魔じゃないです」と嬉しそうにスプーンを握った。その様は先程の子供たちと何ら変わりないのだが、それに気付いて笑みを零したのは店主のみである。
 ぱくり、と一口目を口に入れるとは俯いた。半熟のふるふると揺れる玉子に適量のトマトソースが絶妙に絡む。思いがけず入った店が、こんなにも自分好みの味を提供してくれて、こんなに上手い話があっていいのか。きっと残業を頑張ったご褒美だ、とは自分で自分を称えた。

「美味い!」

 顔を上げて店主へと告げると、二口、三口と皿の上からオムライスが消えていく。「ありがとうございます」と礼を言う店主は、自分の作った料理がこんなに喜ばれるのと、本当に美味そうに食べるの姿に嬉しそうに笑う。
 あっという間にそれを平らげたは、大満足、と残りのグラスを空にした。

「ごちそうさまでした!」

 両手をぱんっと合わせて頭を下げると、自分の前に手頃なサイズのスイカの乗った皿が置かれる。子供たちへと切り分けられたものより、一回り大きなそれは食後のデザートとしては至高の一品に感じられた。顔を上げて驚いたように店主を見ると、相変わらずの笑顔で「よろしければどうぞ」と勧められる。

「じゃあ、遠慮なく」

 満面の笑みではスイカへとかぶりつくと、たらりと零れる果汁を手の甲で拭きながら、その甘さを堪能した。



「ぷはー、おいしかったぁ」
 
 出されたお絞りで手を拭いて一息つく。勘定を払おうと立ち上がると「幾らですか?」と訊く前に、店主の腕が伸びてきた。

「種、ついてますよ」

 と、口の端を拭われ、は「あ、すみません」と照れ笑った。これでは子供と同じだと少しだけ恥ずかしく思うと、店主もそれを察したのか「すみません、子供扱いしてしまって……」と頭を下げる。「いえいえ」と大げさに両手を振ると、かちりと重なった視線にどちらともなく笑みが零れた。

 これが、山田草太との初めての出逢いだった。


 店を出て、もう一度その構えを振り返る。美味い店を見つけられたことが何より嬉しい。
 新しい町も悪くないかもしれないと心なしか弾んだ気持ちを素直に受け止めながら、はまた来ようと心に決めて家路へとついた。









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