東方司令部執務室 7月



 「あ」

 ひらり、と抱えていた書類の山の一番上から風がさらったその紙は運悪く大きく一歩を踏み出したハボック少尉の靴の下へと滑り込んだ。やばいと思ってもすでに右足は地面に向かってキスを迫っている。あー、と溜息が落ちてきて皆の視線が一点に集中しても、きっと僕は悪くない……はずだ。






   それは他愛ない会話






…珍しい名前っすね。新兵ですか?」

 大きな靴跡がついた書類を拾い上げて、少尉はぱぱっと埃を払う。そんなことで綺麗になるような汚れではないけれど、一応カタチだけでもやっとかないと目の前の大佐から嫌味を云われるからだろう。例え自然現象の風の悪戯だとしても、例えその書類を持っていたのが僕だとしても、大佐の照準はその殆どが少尉へと向けられるのだ。…まぁ、この場合は結局、何をしても小言は避けられない。

「新兵ではない。が、来週からウチに配属される伍長だ。東の島国の出身らしい」

 にこりと笑って、あれ、これは案外小言は無しかも、と安心したのもつかの間。次の瞬間、少尉の手にあった書類は盛大な焔をあげた。あちっと放たれたその書類は見る間に黒い燃えカスへと変貌を遂げる。少しだけ焦げた床を確認すると、これはホークアイ中尉が…と視線を向けるより先に、撃鉄を起こす音が背後から聞こえた。

「大佐、何度云ったら……」
「悪いのは私ではない!ハボックだ」
「ちょ、なんで俺なんすか!」
「そんな汚れたもの使えないだろう」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を冷たい視線で中尉が咎める。この場合、百歩譲って事の発端は僕だと思うが「フュリー曹長は気にしないでいいのよ」と氷の微笑を向けられて、ただ頷く以外何が出来ただろう。二発の銃声の後に静かになった執務室は、今日も平和だ。






「どこの隊に配置するんですか?伍長は」

 ホルスターへと銃を仕舞いながら、中尉が大佐へと問いかける。ああ、と思案顔で視線を流すとぴたりと止まったその先には、言わずもがな、彼しかいない。

「ハボック、新しい部下が欲しいか?そうか、欲しいか」

 有無を云わせない笑顔で畳み掛ける大佐に中尉は呆れている。僕?僕はただ傍観者でいることしが出来ない。曹長という身分では配置に口出しできるわけもなく、上司の決定事項に従うまでだ。……ひとつだけ欲を云えば、慕ってくれる可愛い後輩が出来たらいいなとは思うけれど。

「そりゃ、使える部下ならいくらでも。どんな奴なんすか?」
「出世に興味がないらしい。イシュヴァールの前線で見事な働きを見せたが階級が上がるのを辞退して、入隊以降ずっと伍長だ」
「辞退……そんなこと出来るんですか?」
「さぁ、あまり聞いたことはない。軍に所属していながら上に行くのを拒否することなど考えられんからな。何でも大総統のお気に入りらしく多少のわがままなら通るという……、ま、上層部内の噂だが」
「お気に入りって……ん?イシュヴァール戦なら大佐や中尉とも面識が?」
「阿呆、あれに何人出たと思ってるんだ。一人ひとり自己紹介するわけでもあるまいし。が      

 何度か大総統室で見かけたことはある。と大佐は何かを思い出すように不敵に笑った。あ、この顔するときは何かある。中尉も少尉も同じことを思っているらしく、あまりいい顔はしていない。

「セントラル勤務でない、しかも伍長位が大総統室で何をしていたか。興味深い話とは思わんかね」
「何って、お気に入りって噂があるならすることは……ナニじゃないっすか?」
「少尉」

 たしなめるように中尉が小さく咳払いをした。何がナニする……どういう意味かと考えて、僕は自分の耳が熱を持ったのがわかった。そういう意味だ。

「よっぽど美人なんすかねぇ」
「美人……というよりは可愛らしい、という言葉のほうが私はあっていると思うが」
「ま、何であれ女の子が隊に入れば他の奴の士気も少しは上がるんで、俺は大歓迎です」
「彼、は私と同じ歳だよ。ハボック少尉」

 さっきと同じ顔で笑う大佐は、やはり何処か面白そうに云った。いつの間にか咥えていた煙草を落としそうになりながら、少尉は目を見開く。

「別に珍しくもなかろう。男の多い組織だ。それに、伍長ならわからんでもない」

「まさか、あんたも……」
「逢えばわかるさ。彼の瞳は人を惹きつける何かがある」
「大佐、全ては噂でしかありません」
「わかっているよ、中尉。冗談が過ぎたようだ、すまない。で      

 どうする?ハボック。今日一番の不敵な笑顔の大佐はとても楽しそうだ。この時期に転属なんて、何かあるのかと思ってはいたけれど……大いにありそうな雰囲気で、僕は小さく肩を落とした。慕ってくれる可愛い後輩には、当分、出逢えそうもない。
 半ば強制的な上司の押し付け人事を断る術もなく、少尉は面倒そうに返事をしていた。

      失礼します。大佐、うちの隊のロックハートが病気療養で離隊届けを……」

 短いノックのあとに勢いよく開いたドアの向こう。あまりにもタイミングの良い登場に、全員の視線がブレダ少尉へ集まると、当の本人は何事かと訝しげに口を閉ざした。






結果、このとき伍長が自分の下に配属されなかったことに対してハボック少尉は後に延々と管を巻くことになる。それを見ながらブレダ少尉は勝ち誇ったように追加のビールを頼み、何度目になるかわからない乾杯を僕に迫るのだが、それはもう少し先の話だ。




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