東方司令部勤務 一年一ヶ月目 八月。


 記憶と思い出は違う。
 世界はこんなにも眩しくて、射し込む光はただただ柔らかいのに
 足元に浮かんだ影が、永遠の枷のように、いつまでもそこに在り続ける。




    夏日




 二ヶ月かけてやっとデートにこぎ付けたウエイトレスのミザリーが、「マスタング大佐は素敵よね」と目を輝かせた時に、過去何度も味わった屈辱を察知して、はは……と乾いた笑いしか出なかった俺を誰が責めようか。どうせこの後にくる台詞は決まってる。「お願いよ、ジャン。マスタング大佐を紹介してちょうだい」だ。盛大な溜息の後に視線を逸らせば、見知った顔を視界に捉えて目を瞠る。だから、彼女の予想外の台詞も生返事で答えてしまったことに気付いたのは、勢いで席を立った後だった。

「だからね、ジャン」
「……ああ……」
「大佐の部下のあなたもきっと素敵なんで      
「ごめん、ちょっと」
「え?あ、ジャン!」

 二人を見失わないように、オープンカフェから小走りで追いかけると、角を曲がってすぐに張り上げた声が響いていた。

「っ……放して下さい」
「やっと見つけたんだ。話だけでも聞いてくれないか」
「話すことなど、何もありません」
、私は      
!どうした?平気か?」

 二人の視線がこちらに向くと、俺はその見知らぬ男の双眸に呑まれそうになり、瞬時に身体が警戒した。右手を腰の後ろに回して、銃を出そうと身構える。に向けていた何か懺悔を請うような瞳の色は、俺を捉えると敵を見つけたような厳しいものに変わって、警戒心と不信感たっぷりに射抜いてきたのだ。俺だって伊達や酔狂で軍人をやってるわけじゃない。この男がただの民間人じゃないってことぐらいは判断できる。グリップを握って、引き抜こうと男の位置を確認した時、の声が動きを静止させた。

「ハボック、なんでもない。昔の知り合いだ」
「それにしちゃあ穏やかじゃなかったみたいだけど」

 足先から頭まで値踏みするように男へ視線を巡らせると、相手も全く同じ意思を持っているであろう視線を俺へと向けてくる。

「どうかこのままお引取り下さい。ここは、あなたのいるべき場所ではない」
「……わかった。今は引き下がろう。あと三日ほどはイーストシティにいる予定だ。……、待っているよ」
「無駄です」
「相変わらず、判断が早いな」

 困ったように笑う男の表情は、俺に向けられるそれとは違って何処か優しさと哀しさを含んでいた。振り返ることもなく歩き出したの後を追いながら、取り残された男を見遣る。ただ、じっと、止まることのないの背中を眺めるその姿に、少しだけ同情してしまったことは、そっと胸に秘めた。
 暫く進んで男が見えなくなった頃、ようやく振り向いたは俺の姿を確認すると今更みたいに「珍しいな、休みに外で偶然会うなんて」と云った。まるでさっきの出来事がなかったようにあまりにも自然に接してくるから、俺自身も一瞬、今の状況がどうなっているのかわからなくなる。通りには買い物帰りの主婦や子供たちのはしゃぐ声が時折響いて、のんびりとした午後がそこにはあった。こんな天気の良い日には可愛い女の子を連れてデートでもしたい気分だ、なんて思ったのも束の間、オープンカフェに置き去りにした彼女のことを思い出して血の気が引くと同時に、深い溜息を吐いた。

「……
「ん?」
「今回俺が振られるのはお前が原因だからな」
「は?」
「いいから、さっきの説明しろ。何でもない、は無しだ」

 デート中は禁煙という今日の俺の目標はたったの一時間ちょっとで達成となり、ポケットから取り出した煙草に火をつける。感慨深くもなんともないいつものその味を深く吸い込んで吐き出せば、煙の向こうで肩を竦めるは諦めたように、否、呆れたように?苦笑した。

「本当に何でもないよ。昔の知り合いで、今は南を拠点に仕事してるらしい。逢ったのは俺も久しぶりなんだ」

 これでいい?と窺う顔で俺を見るに、否定も肯定もせずにじっと次を待てば「わかった、降参」と両手を上げる。

「仕事を手伝ってくれって云われたんだ。人手が足りなくて、優秀な奴を探してるんだと」

 優秀、という言葉を強調して云い切ったしたり顔に、こいつは本当にいい性格をしてると感心した。配属されたばかりの頃の謙虚さが、今じゃ微塵も感じられない。まぁ、それも正しくは俺に対してだけだったりするわけで、その辺は心を開いてくれているんだと悪い気はしないが。

「仕事ってどんな?どう見ても普通のおっさんって感じじゃなかったけど」
「んーテロリスト」
「あぁ、道理で雰囲気が。……って、は?真面目に?ってことは誘われた仕事ってテロ活動ってこと?軍人のお前を?どんな知り合いだよ、それ」
「元上官。イシュヴァール戦の後に退役したんだ」
「イシュヴァール……」

 昔を思い出したのか、一瞬曇った表情はすぐに消され、は「これで全部話した」と笑った。イシュヴァールに出た先の軍人たちは、皆、当時のことをあまり語らない。自分がどれだけのイシュヴァール人を殺したのか、まるで英雄気取りでその武勇伝を語りたがる莫迦な将官たちももちろん存在はするけれど、殆どが口を閉ざし瞳を伏せる。
 ガキの頃から間近で見てきた戦争の非情さなんてどれも大差ないんじゃないかと思うのは、あの戦いには出ていない俺の勝手な思い込みなんだろうか。
 さっきの男がイシュヴァール戦後に退役して、それからテロ活動ってことは余程軍に失望したんだろう。でも、現役のを誘いにくるなんてリスクが大きすぎやしないか。逆に捕まるってことは考えないのか……。暫く考察しても、その答えには辿り着けなかった。がそんな人間じゃないってことをあの男は知っていて、自身もあの男に対してそんなことは考えない。そこまでの信頼関係のようなものが二人の間にあるとすれば。
 少しだけ、ちくり、と痛んだ心の奥底を人はたぶん、嫉妬と呼ぶのだ。

「……あー、で、どうなんだ?」
 
 長い沈黙の後、ようやく口を開いた俺の言葉には「ん?」と不思議そうな顔をして、すぐに「ああ」と小さく笑う。

「ないない。俺、今の生活気に入ってるし。穏やかな毎日が俺の居たい場所なんだ」
「……軍にいる時点で、穏やか、ってのは無理じゃないか?」
「……そうかも」

 どちらともなくふっと笑えば、照りつける太陽が流れてきた大き目の雲に隠れ、日影特有の一瞬の涼しさが辺りに降る。デートの相手はきっともう怒って帰ってしまっただろう。愚痴を零しながら歩き出した俺に、は「相手、まだ待ってるかもよ?」と要らぬ希望を植えつける。

「だったら晩飯賭けるか?俺は待ってないと思うけど」
「うん、俺も待ってないと思う」
「このやろー」

 首に腕を回してじゃれあう姿は平和そのもので、こういう毎日なら確かにいいな、なんて思った。

      でも、もし立ち塞がって邪魔するようになったら」
「ん?」
「ハボックが、その手で、俺を殺して」

 冗談の延長で紡いだ言葉なのか、それとも本心なのか。俺にはその言葉の意味は理解出来なくて、絡んだ視線の熱にも、だから気付けなかった。

「そうなったら俺が責任持ってこっちに引き戻してやるよ」

 の頭へと掌を伸ばして笑えば、当の本人は「ばーか」と顔を伏せて乱れた髪を直す。
 もしもこの時の表情を見ていたら、お世辞にも頭の出来が良いとは云えない俺でも何かに気付けたのかもしれないと、そう思うのは随分後の事だけど。
 今はただ、雲が途切れて再び覗いた太陽に映された影が妙に鮮明に思えて、そればかりが残像みたいに焼きついていた。












110217