東方司令部勤務 三年目 某月。


「……軍を裏切ってるのか?」

 話があると呼び出された東方司令部からずっと北の街外れにある建物に入ると、ハボックは静かにそう放った。カツカツと階段をあがる音が響いている。俺の先を歩くその背中の向こうの顔が、だから今、どうなっているのかなんて知る由もなかった。
 とくん。と小さく跳ねた心臓に気付かれない様、普段と変わらないトーンで「何だそれ?」なんて笑ってみせる。
 振り返らないハボックに、ただ付いて歩けば廊下の奥に一部屋だけ外の光の射し込む部屋へと案内された。何ヶ月もの間放置されていたのか、窓なんて全部割れて硝子がその辺に散乱している。雨風に晒されて荒れに荒れたその部屋で、この建物に入って初めてハボックがこちらを見た。

「詳しくは訊いてない。……けど、      大総統から直々の命令だ」

 ホルスターから抜いた銃をこちらへと構えて、照準を定める。
 不自然にならない様に、驚いたふりで一歩だけ下がると足元の硝子が、ぱきん。と更に小さく砕けた。

      ハボック……何の冗談だよ」

!」

 言い聞かせるように名前を叫ぶその声は困惑に満ちている。他の誰でもない俺が、こいつにそんな顔をさせているのだと考えれば、どうしてか、胸の奥がちくりと痛んだ。「……なんてな」そうハボックが云ってくれればいいのに。
 莫迦みたいだと、ふと思った。この後に及んでの言い訳なんて誰も望んでないんだ。「大総統からの直々の命令」ってだけで、理由なんてもう要らないんだと明白じゃないか。

「……お前に俺は撃てないよ」

 諦めがついた途端、何だかおかしくなってつい笑いが零れた。急に笑った俺を見て一瞬だけ隙を見せたハボックに、自分のホルスターから抜いた銃を構えると撃鉄を起こす。
 遠く離れた向こうの建物の屋上で、先程チカッと光ったように見えたのはきっと中尉のスコープだ。彼女ならきっとハボックが危ないと分かれば迷いなく俺を撃つはずだと確信して、少しだけ口の端が上がる。
 
 ハボックの手元へと目がけて、トリガーを強く引くと同時に、右肩に鈍い痛みが走った。遅れて、外に銃声が響く。音が到達するまでの数秒の間が、その距離を現していた。

「……流石、って云いたいけどなんで肩なんだよ。普通は頭だろ」

 銃を弾かれた衝撃で右手を押さえるハボックは、だけれどすぐに体勢を立て直す。

「中尉だって、を殺したくはないんだよ」

 逆のホルスターから抜いた銃を素早く構えながら、ハボックはこちらへと近づいた。
 顔を上げれば、すぐ其処にいつもの見慣れた青い軍服がある。金色の髪が汗にへばり付いて、空よりも深く蒼いその瞳が、何処か哀しそうに俺を映していた。

「ほら、立てるか?」
「……なっ!?ばっかじゃないか?なんで      

 なんで手なんか差し出すんだ。まるで当たり前みたいに伸ばされたその腕に、つい手を出そうとした。いつものテロの後始末。「は前に出過ぎなんだよ」と小言を云うハボックに「はいはい、すみませんでした」と反省の色なしで、とりあえず謝る俺。そんな光景が、今ここにあるみたいだ。
 ついさっきまでの日常にもう戻れないことは分かりきっているのに。時間にしてたったの十数分。それだけの間に、積み重ねてきた数年をあっさりと失ったんだ。

「大体、大総統命令なら殺せって云われてるだろ?」

 眉間にしわを寄せて大きくため息を吐いたハボックは、ちらり、と俺の右肩へと視線を流して痛そうに顔をしかめた。

「軍法会議もなしに極秘に命令が下される様なこと、本当にしたのかよ?」

 確認するみたいに、ゆっくりと問われる。瞳を見ては駄目だと自分に言い聞かせて、俺は更に下を向いた。

      関係ないだろ」

 蒼い瞳はいつだってずるい。
 抑えて、隠して、自分の存在を真っ暗な闇に溶かしてしまいたい時に、その光がいつも邪魔をする。沈みそうな身体は、その蒼を見つけた途端、貪欲にもまた光の中へと戻ってしまうのだから。

「関係なくねぇよ。がそんなことするわけ……」

 云いかけて、今のこの状況でそれは流石にないと思ったのか、ハボックは舌打ちして俺を睨んだ。

「……したとしても、何かあるんだろ?理由が……さ」

 それは、そうであってほしいという願いだろうか。

「理由なんて……ない」
「なら云い方を変える。大佐を、俺たちを裏切ったのか?」

 ああ、もう。なんでそんな顔するんだろう。ハボックが苦しむことじゃないはずなのに、どうしてこの男は自分の痛みのように、顔を歪めるのか。

「……さっさと殺してくれ」

 自嘲気味に笑ってみせると、銃を持っていない左手をぎゅっと握り締めて「!」と牽制された。

「やばいことに首突っ込んでるなら大佐が何とかしてくれる。だから……」
「ハボック!」

 今度は俺が、強く言い聞かせる様に名前を呼ぶ。少しだけ、びくっとした後に、じっとその蒼をこちらへ向けた。

「大佐は何もしなくていい。お前と中尉で任務をこなせばいいだけだ」
「出来るか!そんな事!本当のこと話すまで俺は退かない」

 向けられた銃口とは逆のことを云われて、小さくため息を吐いた。行動と言動がかみ合っていない事に自分でも気付いているのであろうハボックは、けれどその揺るぎない意志を崩しはしない。

      、泣くなよ」
「は?誰が泣いて……」
「泣きそうな顔してる」

 「……してねーよ」と吐き捨てて、俺はまた俯いた。
 先程よりも熱くなっている右肩は、まるで      まるでいつかの熱病みたいだ。
 空よりも深い蒼の中。堕ちたと思った瞬間に全身がざわめいたあの時。恋とか愛とか、そんなものじゃない。これは      そう、ただの熱病だと言い聞かせたのはどれ位前だろう。

 ゆっくりと瞼を閉じて、一瞬の暗闇に自分を取り戻す。
 次に瞼を開いたときは、次に瞳が映したものは      もう、俺の求めていたハボックじゃない。

 自分で自分に催眠をかけるみたいに、深呼吸をして三つ数えた。



「ジャクリーン」

 小さく放ったその声は、存外に大きく響く。
 突然に、その名前を呼ばれた事に理解の出来ない目前の男は、動揺を隠さない。無意識にだろう、グリップに力が入るのがわかった。
 大丈夫。それが軍人ってやつだ。頭で理解しなくていい。身体で、本能で感じるままに動けばいい。そう、そして、それこそが      人間なのだから。

「本当のこと、教えてやろうか?」

 蒼に映る自分の口元が上がる。
 窮地に立つとき、人間は泣くか笑うかしか出来ないんだと、にっこりと、けれど、とても冷たい隻眼でラースが放ったのはいつの日か。

       ああ、なんだ。俺もまだまだ人間じゃないか。

「話してくれるのか?」

 少しだけ安心した様に、こちらを伺う男に視線を絡める。自分に出来る精一杯の笑顔を向けた後、俺は左手に持ちかえた銃を自分の眉間に宛がって人差し指に力を入れた。

「っ!!」

 ドンッ。という衝撃に身体が後ろへと仰け反る。頭を貫通した鉛弾は背面の壁にのめり込んだ。
 散乱するまでに至らなかった脳の一部が、血と何だか解らない液体に混ざって漆黒の髪を伝い、硝煙とむせ返る様な匂いが辺り一面に充満している。
 悲鳴にも似た叫びで俺を呼ぶ声と崩れ落ちた身体に回された腕。こんな状況になりながらも、今だけは少しだけ倖せな気持ちに浸っても許されるだろうか。

!」

 一瞬だけ途切れた意識の後に、どくん。と身体が跳ねる様に覚醒する。音を立てて内側から細胞や肉片が形成されていく感覚は、何度味わっても気持ちのいいものではなかった。

「……なっ!?おまっ……」

 驚愕と      恐怖だろうか。男は信じられないという顔でこちらを見ている。
 鼻沿いに流れ落ちてくる血を軽く擦り取り、俺はゆっくりと立ち上がった。

「……これが、真実だよ」

 うまく笑えていたのかは解からない。けれど、その二つの蒼は、もう俺のよく知る蒼ではないんだと、それだけは解かった。

「ホムンクルスって呼ばれてる。……まぁ俺は完全ってわけじゃないけど。簡単には死なない身体だ」
「死なないって……なんで……そんな……」
      さぁ?理由も理屈も、知ったところでお前には関係ないさ」

 突き放す様に云えば、諦めもつくはずだろう。この数年間、一度だってしたことのない冷たい表情で、俺は蒼の瞳を捕らえた。

「でも今みたいなの、何度か繰り返せばその内死ぬ。だから      
「……待て、待て待て。ちょっと待ってくれ」

 がしがしと頭を掻いて、上を向いたり下を向いたりと忙しい仕草はいつものそいつのもので、今ならまだこの手を伸ばしてその場所に還れるかもしれない、なんて、揺らいだ心を嘲笑った。

「駄目。待たない。いいか、外すなよ。致命傷じゃなきゃ再生はしてくれないんだ。半端に痛いのはごめんだからな」

 右肩を掴んで苦笑する。
 ホムンクルスにもなりきれなくて、だけれど、人間として、軍人にもなりきれない。
 それでも、うまくやってきたつもりだったのに。いつの間に小さな音さえも立てないで崩れていったのか。
 熱病という名のその先の感情に気付いてるラースは、きっと今頃、執務室で笑っている。
 焦がれていた仲間とか信頼とか、そういう此岸から、裏切り者というレッテルを貼られて殺される彼岸へと、俺を送る準備を整えた結果が今なのだろう。
 自分でやれば確実なのに、ラースからの制裁はその手で下されることはなく、俺が最も苦しむ方法で与えられるのだ。

 ジャクリーンという名の死神によって。

、莫迦云うなよ。俺は      

 云いかけた言葉を遮って、諭すように首を振った。
 全てはもう遅い。
 先程の一瞬の暗闇の中、今度こそ捨ててきた思い出に、さよならさえ云わなかったのは。せめてもの償いであると同時に、唯一の罪。
 七つの大罪のその欠片さえ与えられなかった出来損ないの俺に、最後くらい、罪があってもいいはずだ。
       人間だったと、誇れる罪が。

「ジャクリーン」

 もう一度だけその名を呼ぶ。
 
 蒼の瞳のその奥に、少しだけ懐かしさを覚えながら、俺はゆっくりと微笑んだ。







            邂逅という罪の名



             出逢いは陰鬱な雨の夜。
             暗闇に見つけた光は、空の蒼だとばかり思っていたけれど
             今ならわかる。

             あれは、水の蒼だ。



















 100715