東方司令部勤務 一ヶ月目 八月。


 焼けたアスファルトの匂いに眩暈がする。東方の夏がこんなにも暑いなんて知らなかった。照りつける太陽を軽く睨んで、けれどすぐにそのまま目を瞑る。
 去年の夏は北方司令部で下士官たちに混ざって雑務ばかりやっていたが、向こうの暑さはさほど気にならなかった。そんなに広いとは思えないこの国に、何故こんなにも気候の差があるのか。考えようとしても真上の燃えるような恒星が邪魔をして、今はまともな答えさえ浮かびそうにない。

「……暑い」

 呟いたところで、それがなくなるわけでもないのだが、は流れた汗を袖で拭って大きな溜息を吐いた。


 東方司令部に異動になって一ヶ月。仕事の内容と云えば今までやってきたことと何ひとつ変わらない。特別大きな仕事を与えられるわけでもなく、そして誰の印象にも残らないように当たり障りなく過ごす。数年すればまた次の土地だ。
 前にいた北方は三年。その前は南方に四年。どの場所でも最初は東の島国出身と云えば多少の好奇の目で見られるが、慣れてくれば誰も気に留めなくなる。人間とはそういうものだとラースに云われてすぐに理解した。

      だから、この場所でも、きっと変わらない。

 ただ、流れる時間に身を委ねる。来たるべき壮大な計画が実行に移されるその日、出来損ないの自分がどんな役に立つのかは全くわからないし、お父様と呼ばれている人物には「必要なし」とあしらわれて以来、一度も逢っていない。ならば何故、自分はいつまでも此処にいるのか。……その答えは未だに見つけることが出来なかった。けれど、プライドによって与えられたこの軍属という地位で人間みたいに生活するのは嫌いじゃない。






 職務を終えて、司令部を後にしようと更衣室を出ると、その窓の向こうの燃えるような朱が視界に入った。沈み逝く太陽に、ふと、何処かで見たことのある色だと暫く立ち止まって考える。
 昼の暑さは若干残りつつ、けれど汗が流れる程ではない。放った窓から入り込んできたぬるい風が、ほんの少しだけ心地良かった。

「何だ?帰りか?」

 突然、背後からかけられた声に一瞬、びくりと身体が跳ねる。思いのほか、気を抜いていた自分に思わず笑いそうになった。

「はい。      何か手が入りますか?」

 形だけの敬礼をしつつ、その男へと向き直る。肩の階級は少尉を指していて、銜えた煙草の灰が今にも落ちそうだったが、それよりも目を奪われたのはその二つの瞳だった。外の朱をしっかりと捉えているのに、変わることを知らないような深い蒼。

       刹那、先程見た朱の世界と、その二つの蒼が、どくん。と自分の中に流れ込んでくる。燃え盛るその朱に辺り一面が包まれているのに、蒼い瞳は紛うことなく自分に笑いかけるのだ。
 呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうで、は、一度大きく息を吸うと目を閉じた。

「いや、あの……ん?どうした?」

 目を開けると変わらない視界。時間にしてほんの数秒だったのだろうけれど、随分と長い時間あの中にいた気がした。

「いえ、何でもありません。      灰が」

 落ちそうです。と続ければ、少尉は困ったように笑って窓の外へとその腕を伸ばした。隊服に染み付いているのであろう煙草の匂いが鼻を掠める。

「ブレダ知らない?」
「隊長なら、大佐からの急な用件とのことで先程セントラルへ向かわれました」
「え?マジで?じゃあ今日は帰って来ないのか……」

       かと思われます。と、つられて困った顔で返すと、少尉はこちらをじっと見た後にうーん。と唸り始めた。訊けば、大量の書類を明日の朝までに仕上げなければならないらしく、それをブレダ隊長に手伝ってもらう約束だったらしい。      ご愁傷様です。と心の中で哀れみながら、ちらりと外に視線を移した。朱い世界は先程よりも深みを増して、夜に変わろうとしている。
 目の前の少尉が自分の仕事に戻り、この場を去れば、翼の今日という一日も日常という言葉に埋もれ終わるのだ。
 晩飯はメインストリートに新しく出来た旨いと評判のパン屋で済まそうと考え、今の時間ならまだそれなりのものも残っているだろうと、思考はすでに食事のそれへと移っていた。

「あー……、……伍長、様!頼む!俺と残業地獄へ堕ちてくれ!」
「……は?」

      いえ、と無難な断りを入れようとしたが、すでにがっしりと掴まれた腕を引っ張られデスクへと連行される。

 積み上げられた書類を前に小さく溜息を吐き、けれど上官命令なら仕方あるまいと一番上の書類へと手を伸ばした。      が、それはどう見ても下士官である自分の目に触れていいような内容ではない。遠い昔に将官を務めていたときもあるのでやろうと思えば出来るが、果たしてそれを伝えてまで自分が手伝う理由があるのか。下を見ても同じ様な書類ばかりで、どうしたものかと考えあぐねていると大佐の執務室から戻ってきた少尉が覗き込んできた。

「この書類、自分の階級では扱えません」
「ん?ああ、それなら大丈夫。が優秀なのはブレダから聞いてるし、大佐にも了承済み」

 だから心おきなく手伝って!と両手を合わせてお願いされる。そんな理由で下士官の自分が……と大佐を含めこの上官たちは所詮、軍では書類は紙切れでしかないことをわかった上での策士なのか、それともただの怠慢なのか。思ってみたところで、上官からの許しが出ているのならば余計なことは気にせずに早く仕事を終わらせた方が得策だ。

「わかりました。      ですが一応、最終確認はお願いします」
「よし、じゃあよろしく」

と交わした後に、お互い書類の山へと向き直った。





「……んっ」

 腕と背筋を伸ばして時計へと目をやれば、時刻はすでに三時をまわっていた。斜め向かいで同じく書類と格闘している少尉の灰皿はすでに山盛りの吸殻が積まれていて、きっと彼の肺は真っ黒だろうな、なんてどうでもいいことを考える。
 一息つこうと珈琲を淹れ、少尉のデスクへと向かえば「サンキュ」とペンを置いた。

「この調子なら、もう終わりは見えますね」
「ああ、本当助かったよ。悪かったな、無理矢理手伝わせて」
「いえ、お役に立てれば      

光栄です。とありきたりな笑顔をつけて、特別美味しいわけでもない珈琲を流し込む。
 窓の外は静寂と暗闇が広がるばかりで、昼間の青や夕刻の朱を思えば、空とは一日の中でこんなにも色を変えるのかと当然のことを今更不思議に感じたりした。

って最初の印象と実際話してみるのとじゃ随分違うんだな」
「そうですか?」
「そうやって、いつも笑ってればいいのに」

 何でもない事のように、さらりと云い放って少尉は「ごちそーさん」と飲み終えたカップを置き再び書類へと向かう。
 残されたは、ただ、目の前の男を見つめた。

 その蒼をやはり以前に何処かで見たことがある。だが、それがいつなのかわからない。じっと捕らえた視線が刺さったのか、少尉が顔を上げる。瞬間、ばちりと絡んだ黒と蒼の瞳は、けれどどちらも外すことはなく、ただ静かに時間が流れた。

「少尉とは……前にお逢いしたことありましたっけ?」
「いや、今回の異動が初めてだと思うけど……あ、北での合同演習に居たなら逢ってるかもな」
「合同演習……」

 それはない、と記憶を起こす。自分が相手をするのは下士官ばかりで、関わっても所属する隊の隊長までだ。      それに何であれ、こんなに惹かれてしまう蒼に気付かないわけもないのだ。
 …だったらやはり気の所為か。いつまで経っても堂々巡りの思考に疲れ、思い切って本人に尋ねてみても欲しい答えは得られなかった。

      違う。って顔だな」

 新しい煙草に火を着けながら、少尉は困った様に笑う。      その蒼に引き込まれるように、ぐっと顔を近づけて、更に奥へと映るものを確かめた。
 広がる深淵には、ただ、だけが映し出されている。自分がいる場所はいつだって暗闇だと信じてさえいたのに、こんなにも深い蒼の中にいるなんて。

?」

 呼ばれた声に、はっとすれば、無意識に伸ばした指先がその蒼に触れる寸前だった。

「も、申し訳ありません」
「……あ、うん。いいけど……」

 歯切れの悪い言葉を放ち、少尉は視線を横にずらす。これは絶対に怪しまれたと自分の行動の軽率さに心の中で舌打ちして、けれど、やってしまったものはしょうがないと開き直る。元々、そんなに謙虚な性格でもないのだから。

「あまりにも綺麗な色だったので、つい……」

       掻き出してみたくて。と笑えば、一瞬ぽかんとした後に呆れた様に笑う少尉がいた。

「なんつー恐ろしい事を。せめてもっと甘い言葉にしてくれない?」

 伸びてきた掌が、がしがしとの頭を弄る。そんな事をされたのは初めてで、でも何だか悪い気はしないな。なんて考えながら、声を出して一緒に笑った。

「さて、ラストスパートと行きますか」

 短くなった煙草を灰皿へと押し付け、大きく背伸びをすると、ぱきっと小さく骨が鳴る。あと一時間程で片付きそうな書類を横目に、せめて朝がくるまでに二時間は仮眠がとれますように。と一人ごちた少尉はペンを動かした。

「朝飯と昼飯、少尉の奢りでいいですか?」

 屈託なく笑いかければ、「調子に乗るな」と書き損じの丸めた書類の残骸が飛んでくる。それをキャッチして屑入れへと投げると、こちらを見ていた少尉と視線が重なった。

「どっちかは奢る。んで夜はブレダに奢らせようぜ」

 悪戯する少年みたいな顔で、嬉しそうに笑うから「それもいいですね」と相槌を打つ。
 やがて来る朝は何色だろうか。
 窓の外へと意識を向ければ、まだ暗闇しかないその中に、さっきの蒼の残像が見えた気がした。





       朱に交われど、蒼


          仮眠室のベッドへと身を委ねて、意識を手放す瞬間に口元が上がる。

                さて、あの少尉の名前は何というのだろう。

          他人に興味を持った日の終わりに、目を閉じた。








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